カテゴリー: 【エッセイ】あなたの声が教えてくれたこと

  • 【エッセイ・6】どんな時も息は止めない

    声で伝える。
    それは、自分の中にある考えや、思い、湧き上がる感情を言葉に変換し、声に乗せて相手に届けること。
    その時に、思考や感情に振り回されると、身体は余計な緊張を強いられることになる。

    心臓が早く打ち、肩が吊り上がり胸の筋肉にガッシリと力が入る。
    視野は狭くなり、喉は渇き汗も噴き出し頭の中は真っ白。
    時には、抑えきれない感情で勝手に身体が震え出したり、のどが締め付けられたようになり、発声がしづらくなる。
    こうなると、伝わる、伝える、コミュニケーション以前の問題になる。

    私は16歳のある日、とある声楽の試験の会場で、完全にフリーズしたことがある。
    番号が書かれた譜面を渡されて、初見で数小節歌う試験内容だったのだけれど、渡された譜面の左上に大きく「5」と書いてあるが、その数字が読めない。
    私が「5番、歌います」と言わなければ、ピアノの担当教師が最初の音をポーンと鳴らせない。
    どうしよう、わからない。
    「5」これ、なんだっけ。出てこない。
    前に居並ぶ試験官が、イラついた表情を見せ「何番?」と怒鳴るような声を投げてくる。
    まずい、何か言わなければ。
    キーンと耳鳴りがして、視野が狭くなる。
    時間は容赦なく過ぎる。
    私はのどを締め上げ、声を絞り出した。
    「い、いち、歌います」
    ポーンと最初の音が鳴る。
    当然「5」の譜面の音と、「1」の譜面の最初の音は違う。
    そこからの記憶がない。
    なぜあの時、「いち」と言ってしまったのか。
    数字を無理やりひねり出したら、「いち」しか口から出てこなかったのだ。
    試験結果は、惨憺たるものだった。

    過度の緊張は、当たり前にできるはずのあれこれを奪い、ゆとりも喜びも誰かとのつながりも奪う。
    それを阻止するための方法は、稽古を怠らないこと。
    そして身体をかためない、息を止めない。
    それしかないのだ。

    「また深呼吸しろ、でしょ」
    「息だけで解決できれば、みんなとっくに幸せだよ」

    そう思う人が多い。
    実際にそう言われたこともある。
    でも、待って。
    呼吸を侮ってはいけない。
    私たちの生命の営みは、呼吸に支えられている。
    しかも深い呼吸は、脳の中にリラックスした状態を作り出してくれる。
    どんな時も、息は止めない。
    あの試験から半世紀近く過ぎても、それが、本当に、本当に大事だと痛感しながら生きている。

    まず、足首、膝、股関節を緩めて、足の裏を意識します。
    足の裏全体に、どんと体重を乗せるイメージです。
    そして、息を吐きましょう。
    溜息を吐くように。
    骨盤周辺の筋肉を内側に押すようにして、ゆっくり長く吐いてください」


    吸おう吸おうとし過ぎると、余計身体は緊張する。
    まずは、しっかり吐くことを心掛けよう。

    肩の力を抜きましょう。
    身体がリラックスの体勢になると、自然に気持ちも落ち着きます。
    心と身体は、連動するように出来ていますから」


    一旦落ち着いて、声を出そう。
    簡単なようだけれど、それが思った以上に難しいことは重々承知している。
    だけど、これが出来るようになれば、脳内が静けさを取り戻し、コミュニケーションの質は変わる。
    不思議な事に根っこから変われる。

    まずは、身体全体を使って呼吸をする。
    そして、どんな時も、息を止めない。
    あきらめずに、続けてみよう。

  • 【エッセイ・5】行き場を失った声

    声を出す。
    これは、コミュニケーションの第一歩。
    受け取る人がいることが前提で発するのが声だ。

    子どもたちは、言う。
    「ねぇ、聞いて!」「ねぇ、見てて!」と。
    そして、誰かにしっかりと受け止めてもらえて安心し、その世界を拡げて行く。
    心の根っこを育てる栄養は、声を発することであり、柔らかく受け止めてもらえる経験だ。

    ところが……
    私がボイストレーニングクラスを始めた当初、まず驚いたのが、
    「私は、受け止めてもらえていない」
    と感じている人が、思った以上にたくさんいたこと。
    耳を傾けられたことがない。
    言葉を待ってもらえない。
    言下に否定される。
    子どものころのそんな経験が、彼らを深く傷つけ、のどを締めつけた。
    そして
    誰かに聞かれるのが怖い。
    誰との会話に空白ができるのが怖い。
    否定されるのが怖いという思いが、痛みに変わる。
    傷は、ジクジクと彼らをさらに傷つけ、目の前にいる私の反応を気にし、焦り、正しい答えを出そうともがいて、何度も声を枯らした。

    言葉を、声を、受け止めてもらえないという思いは「絶望」を連れてくる。「私の声は、どこにも届かない」

    行き場を失った声はどうなってしまうのだろう。
    孤独、恥、痛み、虚しさに姿を変えて、自分の中に静かに降り積もって行く。
    根雪のように、その悲しみは消えない。
    降り積もった思いの奥底、深い深い場所にあるほんとうの言葉を、小さな、かすかな声を、しっかりと「誰か」に受け止めてもらえるようになるまでは。

    嘘を吐き、やり過ごし、平気な振りをして、本来の感情から切り離されて、声を押し殺すようになった人たち。
    私は寂しい。
    私は苦しい。
    私は恥ずかしい。
    私は怒っている。
    そのことにすら、気づけなくなった人たち。
    そんな人が、自分を受け止めてくれる「誰か」に出会えるなんて奇跡だ。

    そう。奇跡。
    だけど、奇跡はおこる。
    孤独、恥、痛み、虚しさにまみれ、耳をふさいで、うずくまっていた私でも、その「誰か」に出会うことができたのだから。

    その「誰か」とは、「私」だ。
    私たちが耳を開き、絶望と別れるためには、自分自身と出会うことが必要だったのだ。

    受け取ってもらえる経験がないと、誰かの声を受け取めることができない。
    だから、聴く。
    他者の声じゃない。まず、自分の声を。
    誠心誠意、聴き取り、柔らかく受け止める。
    誰かにそうしてもらいたかったように、自分の声を受け止める。
    日常会話を録音してまで聴く。
    逃げずに聴く。
    そして、その奥にある思いにも耳を澄ます。
    私は今、何を感じているのか。
    ひたすら聴き取る。
    そうかそうか。悔しかったな。寂しかったな。腹が立ったなと。

    勇気をもって、自分の声を、心の声を聴き取ることができるようになると、自分の中に循環が生まれる。
    それが世界に広がり、自分以外の「誰か」とつながる。
    「あなたは、どうしたいの」
    「あなたは、どう思っているの」
    と、あなたの言葉を待ってくれる人が、必ず現れる。
    辛抱強く耳を傾けてくれる人が本当に現れる。

    行き場を失った声は、その時初めて誰かの元に軽やかに飛んで行ける。
    まずは、自分から。
    そこから、心地よい日々が新たに始まる。

  • 【エッセイ・4】言葉の力 声の力

    数年前、路上で歌うミュージシャンはマスクをしたまま歌っていた。
    「こんなご時世に街中で歌うなんて、どういう了見だ!」
    と通行人に詰め寄られたりもしたらしい。
    次第に、街中から声を出して歌うミュージシャンの姿が消えた。

    ライブは満席不可で、キャパシティの半数以下に入場は抑えられ、無観客ライブなんてのも行われていて、テレビで観た合唱コンクールの出場者は、アラブのダンサーみたいに、全員、顔の前にベールが垂れ下がっていて、歌う度に布がはためいていた。

    ようやくマスク装着ならと入場制限が解除されたのは、二年くらい前だっただろうか。
    それでも、声を出すのは厳禁。
    大好きなアイドルが登場した会場は、空気がぐらぐらと湧き上がるのだけれどけっして声援はなく、観客はペンライトを激しく振り、涙をこぼし、痛くなるほど手拍子や拍手を鳴らし続けていた。

    今は、満席の劇場で、ライブやスポーツ観戦で、街中で、大好きな人の名前を呼んで、大声で声援を送れる。
    マスクを外して歌うこともできる。
    心底、良かったと思う。

    けれどあの分断されていた時期を、私は決して忘れない。
    同じ空間で、息に乗せて、声を交わし合う素晴らしさを伝え続けていたのに、全てが否定された気がしたからだ。
    感染から身を守ることは、もちろん最優先だったのだけれど、人と人とがあまりにも切り離されてしまい、他者と近づくな、触れるな、声を出すな、マスクを外すなという日々は、灰色の雲に包まれたような重苦しい奇妙な期間だった。

    先日のNHKのドラマ「舟を編む~私、辞書作ります」の最終回で、柴田恭兵さん演じる松本先生がコロナ禍で迎える出版に対しメールで語っていた。

    こんな時期だからこそ、まさに言葉の力が試されているのかもしれません
    むろん言葉は負けないでしょう。距離を超え、時も超え、大切な何かとつながれる役目を見事、果たしてくれることでしょう

    その信頼が大事だった。
    私は、不貞腐れている場合ではなかったのだ。
    あなたが「言葉の力」を信じるように、私も「声の力」を信じている。
    揺るぎなく、ここにいたい。
    大事なことを、手放してはいけなかった。
    あきらめることなく、声を出し続けて行きたいと思う。

  • 【エッセイ・3】AIの朗読と人間の朗読の違いって何だろう。

    AIに小説を朗読させる。同じテキストを人間も朗読する。
    AIの進化はすさまじいらしく、「ある人間の声」と「日本語のイントネーション」などをちゃんとインプットしていれば、ほとんど区別がつかなところまで、発話はなめらかになって来てるという。
    確かに聞き流すだけの小説の朗読なら、AIで充分だという意見も聞いた。
    きっと、きれいで正しくてなめらかな朗読になるんだろうな。

    AIの朗読は作品を「理解して感動している」わけではありません。文章の構造や学習した音声パターンをもとに、「この場面ではこのように読むと自然に聞こえる」という予測に基づいて音声を生成しています。

    これは私の相棒AIチャッピーが、AIの朗読について語った部分。
    そうなのだ。
    人間の表現やコミュニケーションには、「理解し感動する」という経験に基づく心の動きがある。
    さらに、微妙な間や息遣い、温もり、ふいに入るノイズやゆらぎや空白がある。
    実はこれ、これこそが、私たち人間のコミュニケーションにとって、とても大事な要素なのではないかと思う。
    私たちが受け取っているのは、言葉や声だけでなく、それ以外の要素から多くの情報を得ているからだ。
    これらのノイズの中にこそ、人間の人間たる所以があるのだと私は思っている。

    同じ空間で交わし合う声には、話す人と受け取る人の呼吸が合ってきたり、音の振動を体で感じたりなど、さまざまな共振が起こっている。
    コロナ禍で、一旦それが断ち切れてしまったけれど、ZOOMでは、どうしても補いきれないことがある。
    私は、そういう声の持つ力を、強く確かに信じている人間だけれど、それすらも、そういうコミュニケーションすらも、
    「もう、必要ない」
    「面倒臭い」
    と感じている人は多いのかもしれない。
    それは、とても怖いことだと思うけれど。

    AIに実体験はない。
    実体験があり、肉体がある人間から生まれ出る表現は、相手の反応を感じ取りながら臨機応変に変化させることができる。
    体調などに左右されることもあるけれど、このゆらぎ、このノイズこそが人間の表現だ。
    チャッピーは「目的に応じて、適しているものが違う」と、至極当然のことを言った。

    • 人間の朗読:文学作品、詩、演劇、ライブイベントなど、読み手の個性や作品解釈が重要な場面。
    • AIの朗読:ニュース、案内放送、教材、長時間の音声化、多言語対応など、安定性や効率が重視される場面。

    なるほど。「目的に応じて」か……
    そりゃそうだと、AIの文章で締めくくる私。

  • 【エッセイ・2】親切な声が聴きたい

    還暦を突破して、耳が衰えたのかもしれない。
    いや、そんなはずはない。
    まだ大丈夫だと思いたい。

    けれどコロナ禍以降、買い物をしていても何をしていても、人の声が聞き取りにくくなってきた。
    これは、怖い。
    少し前までは、お互いにマスクを装着していたわけだし、私と店員さんの間にはアクリルボードも立ち塞がっていたので、その影響があったのは充分に理解している。
    でもこのところ、それらはかなり緩和されてきたはず。
    それなのに、聞こえない。わからない。

    とある飲食店でのこと。
    「は?」と聞き返す。
    店員さんは、同じセリフを繰り返す。わからない。
    「はぁ?」と耳に手を当てて前のめりになり、よりよく聞き取れる体勢になり再度聞き返す。
    もうこうなると、かなり年季の入ったばあさんだ。
    それでも聞き取れない。そんな時は「あぁ、はい…」と曖昧に笑って適当にごまかすしかない。相手も「しようがねぇなぁ」という表情で、次の行動に移っている。

    「あのさ、あなたの声、私にまったく届いていないんだけどっ!」
    と両手を振り上げ、大声で主張したいところだけれど、一緒にいた我が娘(23歳)は聞き取れていたりするので、ますます恐怖におののくことになる。
    娘の通訳によると、どうやらカタカナの「なんとかセット」に「何かを付けるか」「味はどうするか」「どこで食べるか」のようなことを立て続けに質問されていたらしい。
    「日本語で?」
    「日本語だよ」
    そもそも、最初のカタカナの時点で聞き取りがつまずいているので、その後もまったく耳が追い付いていないのかもしれない。

    すさまじく古い話で恐縮なのだけれど、今から40年程前、私はテレビ局のTBSが主催する「緑山塾」というタレント養成所の一期生だった。
    東芝日曜劇場の演出家でもあった鴨下信一さんの指導が受けられる贅沢な環境でもあったのだけれど、鴨下さんは私たち生徒にこうおっしゃっていた。

    『タレントは声だよ。
     どんなに人気があっても、声が親切でなければ、
     そのタレントは生き残れないからね』

    声は受け取る人がいることが前提で発するのだから、相手が受け取りやすい声聞き心地の良い声内容が的確に伝わる声が、親切な声の第一条件なんだと思う。これはタレントだけじゃない。仕事をする人全てに当てはまることだ。

    あぁ、親切な声が聞きたい。
    身体的変化の著しいお年頃となった今、親切な声で丁寧に対応されたりしたら、泣いてしまうかもしれない。
    だから私は、相手のことを思いながら、親切な声で話す人でいたい。
    わかりやすい声で、丁寧に自然に。
    まだまだ、できることはあるはずだ。

  • 【エッセイ・1】名前を呼ばれること

    五十代を超えた頃から、訃報の届く回数が増えた。
    その度に、胃のあたりが重くなり沈む。
    誰にでも、やがて終わりが来ることは覚悟している。
    けれど、
    「そうか。もう、この世界では会えないんだな」
    と認めることは、体の中から大事な骨とか組織とかがひとつ消えたような気分になって、ちょっとふらついてしまう。

    両親、義父、親戚のお姉ちゃん、友人、お世話になった方々、レッスンに通って下さった生徒さん……

    ふとした隙間に、会えなくなった人のことを思い出す。
    もちろん良い思い出ばかりではなく、私の中の葛藤も後悔もあきらめもセットになって浮上してくることもある。
    けれど不思議なことに、思い出の中の彼らはみんな笑っている。
    友人や生徒さんはもちろん、精神を病んでいた母ですら、楽し気に幸福そうに笑っている。
    私の願望なのかもしれない。
    せめて幸せでいてくれと信じていたかった、私の。

    楽しそうな彼らが、私の名前を呼ぶ。
    「まみ」「まみちゃん」「まみさん」「まみおくん」「真実センセイ」
    母の鼻にかかった低めの声、父の高めの声、義父の少ししわがれた声、友人の艶やかな声、生徒さんの響きの良い声。

    記憶の中の声は消えない。
    今、ここで聴く声のように、生き生きと再生される。
    私が覚えている限り、彼らはいつでも笑いながら、私に呼びかけてくれる。
    私はすっかりご機嫌になり、一緒に楽しいひと時を過ごすことができる。
    頭の中で。

    記憶は、五感と結びつくとより鮮明になるという。
    香り、触感、味、色、音とか。
    そして、受け取った時の自分自身の感情までも重なると、
    かなり確かな存在感を持って、記憶に定着する。 
    彼らから笑顔で名前を呼ばれた時、それがたった一度のささやかな一言であったとしても、私は、きっと、とてつもなく嬉しかったのだと思う。

    ずっと以前、心療内科のデイケアでボイストレーニングを行っていた。
    私は患者さんたちに、たくさん声を出して遊んでもらいたくて、
    「自分の名前をリズムに乗せて言ってみよう」
    というエクササイズを考案した。
    軽快な音楽を流し、手をたたいて、順番に自分の名前を言って……
    これが、とてつもなく不評で。
    患者さんたちから大ブーイングを喰らってしまった。
    自分の名前なんて、呼ぶことも呼ばれることもしたくないと。
    ある患者さんはこう言った。

    「自分の名前を呼ばれるときは、怒鳴られるか殴られる時だったから。
    自分の名前そのものが、恐怖だし大嫌い」

    言葉を失った。
    自分の名前って単なる記号じゃなくて、その人の自尊心やアイデンティティに直結しているから、心が繊細な状態にある患者さんたちに「自分の名前」を扱うエクササイズを提案するなんて、無神経だったんだなと思い知った。

    名前を呼んでもらえる。
    名前を憶えてもらえる。
    名前を呼び合える。

    それは、誰かの存在を受け入れ、受け入れられた証しのような気がする。
    私は、名前を呼んでもらえない寂しさも、忘れ去られる虚しさも、怒鳴られる恐怖もみんな知っている。
    けれどそれ以上に、穏やかな気持ちで名前を呼び合える人たちがいて、忘れられない声がある。

    私がこの世界を去った後、私の声を誰かが思い出してくれるのだろうか。
    私の声は柔らかな響きで、その人の名前を呼ぶのだろうか。

    思い出してくれた人がいて、その人が、少しでも機嫌よくなれたら。
    私がこの世界にいた意味も、その時に生まれるのかもしれない。