声を出す。
これは、コミュニケーションの第一歩。
受け取る人がいることが前提で発するのが声だ。
子どもたちは、言う。
「ねぇ、聞いて!」「ねぇ、見てて!」と。
そして、誰かにしっかりと受け止めてもらえて安心し、その世界を拡げて行く。
心の根っこを育てる栄養は、声を発することであり、柔らかく受け止めてもらえる経験だ。
ところが……
私がボイストレーニングクラスを始めた当初、まず驚いたのが、
「私は、受け止めてもらえていない」
と感じている人が、思った以上にたくさんいたこと。
耳を傾けられたことがない。
言葉を待ってもらえない。
言下に否定される。
子どものころのそんな経験が、彼らを深く傷つけ、のどを締めつけた。
そして
誰かに聞かれるのが怖い。
誰との会話に空白ができるのが怖い。
否定されるのが怖いという思いが、痛みに変わる。
傷は、ジクジクと彼らをさらに傷つけ、目の前にいる私の反応を気にし、焦り、正しい答えを出そうともがいて、何度も声を枯らした。
言葉を、声を、受け止めてもらえないという思いは「絶望」を連れてくる。「私の声は、どこにも届かない」
行き場を失った声はどうなってしまうのだろう。
孤独、恥、痛み、虚しさに姿を変えて、自分の中に静かに降り積もって行く。
根雪のように、その悲しみは消えない。
降り積もった思いの奥底、深い深い場所にあるほんとうの言葉を、小さな、かすかな声を、しっかりと「誰か」に受け止めてもらえるようになるまでは。
嘘を吐き、やり過ごし、平気な振りをして、本来の感情から切り離されて、声を押し殺すようになった人たち。
私は寂しい。
私は苦しい。
私は恥ずかしい。
私は怒っている。
そのことにすら、気づけなくなった人たち。
そんな人が、自分を受け止めてくれる「誰か」に出会えるなんて奇跡だ。
そう。奇跡。
だけど、奇跡はおこる。
孤独、恥、痛み、虚しさにまみれ、耳をふさいで、うずくまっていた私でも、その「誰か」に出会うことができたのだから。
その「誰か」とは、「私」だ。
私たちが耳を開き、絶望と別れるためには、自分自身と出会うことが必要だったのだ。
受け取ってもらえる経験がないと、誰かの声を受け取めることができない。
だから、聴く。
他者の声じゃない。まず、自分の声を。
誠心誠意、聴き取り、柔らかく受け止める。
誰かにそうしてもらいたかったように、自分の声を受け止める。
日常会話を録音してまで聴く。
逃げずに聴く。
そして、その奥にある思いにも耳を澄ます。
私は今、何を感じているのか。
ひたすら聴き取る。
そうかそうか。悔しかったな。寂しかったな。腹が立ったなと。
勇気をもって、自分の声を、心の声を聴き取ることができるようになると、自分の中に循環が生まれる。
それが世界に広がり、自分以外の「誰か」とつながる。
「あなたは、どうしたいの」
「あなたは、どう思っているの」
と、あなたの言葉を待ってくれる人が、必ず現れる。
辛抱強く耳を傾けてくれる人が本当に現れる。
行き場を失った声は、その時初めて誰かの元に軽やかに飛んで行ける。
まずは、自分から。
そこから、心地よい日々が新たに始まる。
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