【エッセイ・1】名前を呼ばれること

五十代を超えた頃から、訃報の届く回数が増えた。
その度に、胃のあたりが重くなり沈む。
誰にでも、やがて終わりが来ることは覚悟している。
けれど、
「そうか。もう、この世界では会えないんだな」
と認めることは、体の中から大事な骨とか組織とかがひとつ消えたような気分になって、ちょっとふらついてしまう。

両親、義父、親戚のお姉ちゃん、友人、お世話になった方々、レッスンに通って下さった生徒さん……

ふとした隙間に、会えなくなった人のことを思い出す。
もちろん良い思い出ばかりではなく、私の中の葛藤も後悔もあきらめもセットになって浮上してくることもある。
けれど不思議なことに、思い出の中の彼らはみんな笑っている。
友人や生徒さんはもちろん、精神を病んでいた母ですら、楽し気に幸福そうに笑っている。
私の願望なのかもしれない。
せめて幸せでいてくれと信じていたかった、私の。

楽しそうな彼らが、私の名前を呼ぶ。
「まみ」「まみちゃん」「まみさん」「まみおくん」「真実センセイ」
母の鼻にかかった低めの声、父の高めの声、義父の少ししわがれた声、友人の艶やかな声、生徒さんの響きの良い声。

記憶の中の声は消えない。
今、ここで聴く声のように、生き生きと再生される。
私が覚えている限り、彼らはいつでも笑いながら、私に呼びかけてくれる。
私はすっかりご機嫌になり、一緒に楽しいひと時を過ごすことができる。
頭の中で。

記憶は、五感と結びつくとより鮮明になるという。
香り、触感、味、色、音とか。
そして、受け取った時の自分自身の感情までも重なると、
かなり確かな存在感を持って、記憶に定着する。 
彼らから笑顔で名前を呼ばれた時、それがたった一度のささやかな一言であったとしても、私は、きっと、とてつもなく嬉しかったのだと思う。

ずっと以前、心療内科のデイケアでボイストレーニングを行っていた。
私は患者さんたちに、たくさん声を出して遊んでもらいたくて、
「自分の名前をリズムに乗せて言ってみよう」
というエクササイズを考案した。
軽快な音楽を流し、手をたたいて、順番に自分の名前を言って……
これが、とてつもなく不評で。
患者さんたちから大ブーイングを喰らってしまった。
自分の名前なんて、呼ぶことも呼ばれることもしたくないと。
ある患者さんはこう言った。

「自分の名前を呼ばれるときは、怒鳴られるか殴られる時だったから。
自分の名前そのものが、恐怖だし大嫌い」

言葉を失った。
自分の名前って単なる記号じゃなくて、その人の自尊心やアイデンティティに直結しているから、心が繊細な状態にある患者さんたちに「自分の名前」を扱うエクササイズを提案するなんて、無神経だったんだなと思い知った。

名前を呼んでもらえる。
名前を憶えてもらえる。
名前を呼び合える。

それは、誰かの存在を受け入れ、受け入れられた証しのような気がする。
私は、名前を呼んでもらえない寂しさも、忘れ去られる虚しさも、怒鳴られる恐怖もみんな知っている。
けれどそれ以上に、穏やかな気持ちで名前を呼び合える人たちがいて、忘れられない声がある。

私がこの世界を去った後、私の声を誰かが思い出してくれるのだろうか。
私の声は柔らかな響きで、その人の名前を呼ぶのだろうか。

思い出してくれた人がいて、その人が、少しでも機嫌よくなれたら。
私がこの世界にいた意味も、その時に生まれるのかもしれない。

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